2010年11月22日月曜日

カンペイ、西安に入る、シルクロード走破

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● 「始皇帝陵兵馬俑坑博物館」


 エボルタは今日、京都に着くという。
 ならカンペイについても書かねばならない。
 カンペイは昨日、西安に入った。

 公式日記から。




2010.11.20 19:50 [DAY704]
http://www.earth-marathon.com/2010/11/20/

704日目、ゴール!

午後5時14分(日本時間午後6時14分) 気温16℃ 標高543m

寛平さん「やったー!やったー!ニシヤス(西安)や〜!!」
遂に寛平さん西安に入りました!

前半のみ田舎道で、後半はずっと都市部を走った本日のRUNコース
人の多さに寛平さん「確かに13億人いるはこれは・・・」と、途中感心していました。

そして両手を大きく広げ「やった〜!シーアン!シーアン!〜シーゴーロク!ふぁいと!ふぁいと!」
西安突入で新たな連携技まで生まれるほど喜んでいました!

移動距離 50.0km
所要時間 8時間54分
総移動距離 38115.0km


 西安とは昔の長安。
 長安といえば唐の時代の首都。
 その当時、世界最大の都市であった、と言われている。
 が、地理的には辺境。
 それまでの中国にあっては、春秋戦国の権力争いは「中原:ちゅうげん」で行われてきた。
 秦は西戎の地である。
 つまり未開の地。
 中原と西戎の境界線が「函谷関」である。
 ここには様々な歴史的エピソードが刻まれている。

wikipedia:
函谷関(かんこくかん)は、中国河南省にあった関所。
この関より西を関中といい、中原から入る上での交通の要衝にあり、歴史上多くの戦いが行われ、また故事が生まれた。

 この関を挟んで西に秦がある。
 その王が始皇帝。
 この西戎の地と言われたところの王が中原を滅ぼす。
 さらにその秦を滅ぼしたのが漢。
 この漢はなんと首都を中原におかず、秦の首都においた。
 秦の生き残りが怖かったのだろう。
 それが長安。
 西戎の領域は名前を変え、「関中:かんちゅう」となる 後漢に入り首都は函谷関を抜けて中原に戻り、洛陽に移る。
 が、唐ではまた長安に還る。

 唐の時代に長安は空前の繁栄をする。
 世界第一の街となる。
 日本の遣唐使たちはここを目指して出かけていった。
 万葉集の山上憶良、そして空海(弘法太師)など。
 ご存知のように平安京は長安を模して造られている。
 そしてこの長安からシルクロードがはじまる。
 つまり、長安は中国の入り口出口にもあたっている。
 長安はインド・ペルシャ・ヨーロッパとの接点になる。
 ということは、当時の中国からみるとさほどに西の端にあたるわけである。
 まさに遣唐使たちにとっては、とてつもない長旅を強いるはるかな場所であった。
 大和という東の端からシルクロードの出発点まで、まさに中国横断の旅をしなければならなかったわけである。

 ちょっと中国史のおさらいをしてみた。
 地図を載せてみる。
 これは司馬遼太郎の「項羽と劉邦」に載っている地図である。








● 「項羽と劉邦」より


 左側少し下に長安(西安)がある。
 その右側に函谷関があり、さらに右に洛陽、開封と続く。
 その右に「 沛」という街がある。
 ここが漢帝国を作った劉邦の出身地。
 北京は位置的に何処になるかというと、右上の方に燕という国がある。
 ここに「P」とマークしておきましたが、そこが今の北京になる。
 青島(チンタオ)は左側中程の高密の右側に桃色マークしたところになります。

 ということは、カンペイは函谷関を抜けたあと中原に入り、洛陽、開封を通過して、北京には往かずに、最短距離でチンタオを目指すことになると思われます。


 もし、長安から北京を目指すとなれば司馬遼太郎のこの本が面白い。

 現代地図でみると、左上から入って、右側中程が青島。
 西安は中央下の右よりにあたる。
 よってカンペイは中国横断を2/3ほど終了したことになる。


 拡大すると下のようになります。
 左上がカザフスタンとの国境、右下が西安になります。
 拡大はクリックでできます。





 カンペイのビデオを見て感じることは、中国の発展のスピードのすごさである。
 恐ろしいと言っていい。
 学生のころは「壁新聞」なるものがメデイアだったのだが、一世代のうちにガラリと変わった。
 人はこの発展についていけるか。
 どこかできしみが出てくる。
 ホッツと一息ついた時にそれが湧き上がってくる。
 が、今世紀は中国の時代だ、ということだけは心底実感できる。
 現在では悪評高いが、毛沢東は清の崩壊によってバラバラになった中国を一つにまとめ上げた覇者。
 今、中国はようようまとめ上がった一国という形をもって、経済という基盤の上を猛烈に走りはじめている。
 カンペイも長安に入ったことだから、近々この「長安から北京へ」読み返してみることにしよう。

 ビデオといえば、あの昔懐かし「バタバタ」が度々映っている。
 バタバタとは何?
ということになるが、オート三輪である。
 日本も以前、たくさん走っていた。
 でも、今はまったく見かけない。
 製造していない。
 でも,ここ中国にあった。
 走っている音を聞いてください。
 本当にエンジン音が「バタバタ」というのです。
 どうしてなのだろうと、不思議なのだが。
 はじめの頃のオート三輪のハンドルは「へ」の字型、そしてエンジンから後輪車軸にはチェーンで回転を伝えていた。
 いわゆるオートバイ方式である。
 おそらくこのチェーンに関係する音がバタバタではなかったのかと思うのだが。
 その後、チェーンはプロペラシャフトに変った。
 これでバタバタという音はなくなったように記憶するのだが。
 もし、今の中国のオート三輪がプロペラシャフト構造なら、バタバタ音は別の理由になるのだが。
 そんなことはどうでもいいが、オート三輪をじっくりみられるなんて、なんとも懐かしい。
 「バタバタ」という音が心地よい。
 一生懸命バタバタと経済成長している姿がほほえましい。
 ちなみに先に書いたが、「トトロ」の引越しに出てくるのが、やはりオート三輪、バタバタ。


 今日のビデオはシルクロードの出発点を見る、だった。
 公式日記から。




2010.11.21 16:20 [DAY705]
http://www.youtube.com/watch?v=CJAT5LCLTJo&feature=player_embedded

シルクロード始まりの地

寛平さん「走っていたら道の真ん中にこういうものが出来てます。」

そこには石で出来た、駱駝に乗った人や羊などの造形物。
近くにいたホウリュウさんに説明してもらう事に
ホウリュウさん「ここは唐の時代には外城と内城があり、この場所に外城の門がありました。
(だからこれが)シルクロードの出発点なんです」
「あ〜ここから!シルクロードがヨーロッパの方まで!お〜〜!」
西安からローマまで続くシルクロード、その一部を走破した喜びを体現する寛平さんでした。
寛平さん「遂にシルクロードも終わりました。長かったですね」

移動距離 25.0km
所要時間 3時間53分
総移動距離 38140.0km


 シルクロードはここ長安を起点にしているということですね。

 カンペイ、「始皇帝陵兵馬俑坑博物館」へ行く。
 公式日記から。




2010.11.23 15:40 [DAY707]
707日目、休養日。

11月23日DAY707 気温6℃ 曇り
本日は中国の世界遺産にして西安のシンボル「秦の始皇帝陵兵馬俑坑博物館」へ行きました。
寛平さん「皆さんに西安の良い所を伝えたいと思います、ここは兵馬俑と言いまして・・・
アレが秦の始皇帝かな〜?」
入り口に7,8mの始皇帝の像を見て一言・・・「大きい人やったんやな〜」
イヤイヤそんなに大きいくないですから、とツッコミつつ博物館の中へ
2300年前に秦の始皇帝のお墓を守る為に作られた兵馬俑。今まで3つの兵馬俑抗が発見され
第一号抗だけで6000体もののハニワがあり、1体づつ手作りで1体の平均の高さは1.8mぐらい、
その全ての表情が違うんです。
全く予備知識なしで突入した寛平さん興奮しながら「えっ!えっ!なんやこれ!なにこれ〜!?
これちょっと皆さんなっ!なっ!なっ!なんと〜〜!!」
「なっなっなんと〜!」をこの「兵馬俑」観光で連発!
詳しくは動画クリップでお楽しみ下さい!


 「兵馬俑」について wikipedia から。


兵馬俑(へいばよう)は、本来は古代中国で死者を埋葬する際に副葬された俑のうち、兵士及び馬をかたどったものを指す。
現在では、陝西省にある秦の始皇帝の陵墓の周辺に埋納されたもののみをさすことが多い。
秦の始皇帝陵の一部として1987年、世界遺産(文化遺産)に登録されている。
史記や漢書など数々の歴史書には秦の始皇帝陵の存在は記されていたが、数々の動乱などにより所在地や存在そのものが忘れ去られていた。
漢書には秦の始皇帝陵は項羽によって破壊されたと記されている。

21世紀に入った現在でも、この大文物群の調査・研究は続いている。
近年の現地の研究者や日本の研究者の調査報告によると、従来、来世へと旅立った始皇帝を守るべく配された軍隊と思われていたこの大文物群は、それだけでなく、生前の始皇帝の生活そのものを来世に持って行こうとしたものであったようだ。
すなわち、兵馬のみならず宮殿の実物大のレプリカや、文官や芸人等の俑も発掘されたのである。

姫路市の太陽公園では、兵馬俑が秦始皇兵馬俑博物館をそっくりそのまま再現されており、一般公開され本場の兵馬俑をうかがい知ることができる。



 西安近くにあるのが「華山」。
 公式ブログでは、下記に出てきます。


http://www.youtube.com/watch?v=XMhQ7A7akTA&feature=player_embedded


 中国には有名な五山がある。
 Wikipediaで見てみる。


五岳(ごがく)は中国の道教の聖地である5つの山の総称。
五名山とも呼ばれる。

陰陽五行説に基づき、木行=東、火行=南、土行=中、金行=西、水行=北 の各方位に位置する、5つの山が聖山とされる。
* 東岳泰山(山東省泰安市泰山区)
* 南岳衡山(湖南省衡陽市衡山県)
* 中岳嵩山(河南省鄭州市登封市)
* 西岳華山(陝西省渭南市華陰市)
* 北岳恒山(山西省大同市渾源県)

華山(かざん、ホワシャン ピンイン Huà Shān)は、中国陝西省華陰市にある険しい山。
道教の修道院があり、中国五名山の一つで、西岳と称されている。
最高峰となる南峰の標高は2,160m。
花崗岩の岩場を削って、無数の石段が作られており、一部には断崖絶壁の上に作られた20cmほどしかない足場や桟道を通って行かねばならない場所があり、宗教聖地として、格段の険しい山として知られる。




 この五山がなぜ有名かというと「封神」儀式の場所となっているからである。
 「封神」というのはマンガ「封神演義」で有名になったが、封神とは天子として地上の支配権を認定してもらう儀式をいう。
 つまり「天権王授」の儀式にあたる。
 これを行うことにより、天子として巷の支配権を握ったということになる。
 中国は広いので、そうした儀式のできる山があちこちに5つあるということで、その一つが華山である。


 さて、残すところ青島まであと1/3である。
 年内には青島に到着予定とのことであり、お正月は福岡で祝うことになるのかもしれない。


● 西安から青島まで





● 花いろいろ

エボルタ、東海道をゆく:到着は??

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東海道五拾三次之内(保永堂版)より 「京師」 - 歌川広重



 今日、11月22日、京都到着の日。
 だ、ということで、居住まいをただしてパソコンの前に正座し、出発を待っていた。
 なんて、ことはウソ。
 朝起きて、コーヒーを飲んで、単行本にちらりと目をやって、おう、そうだ、今日は最終日だ、と気がついたていど。
 7時をゆうに回っていた。
 夏場の7時、太陽さんさん、といきたいが今日は曇り空。
 おお、雨が降ってきた。
 ここ数年、日照りに悩まされ続けてきたオーストラリアだが、去年、今年と雨ばっかり。
 「真っ赤に燃えた太陽だから」
は、何処へいった。
 そんなことはどうでもいい。

 パソコンのスイッチを入れると、黒い画面。
 日本は冬の6時。
 まだ、日はさしていない。
 それに傘とカッパが見える。
 ということは雨。
 ちょっと、これ著作権侵害じゃない。
 そう固い事は言わないで。
 まるで、ピントが合っていない。
 ただ、真っ黒な映像。
 真っ黒な映像を法律違反で訴えてどうするの。
 なんという身勝手な論理。
 法治国家の国民だろうが。
 「学校のルールを守れないやつが、社会のルールを守れるはずがない」
 これSMAPの中居クンが言った言葉だったかな?
 


 「奇跡を信じちゃいけなよ,,,,,ああーどうにも降り止まぬ!」
 「なつかしですね、サッサ峠が!」
 なつかしですね、薩埵峠が、40年以上も昔。
 あんな若き日が私にもあったのです。
 え、話がちがうって!
 出たがりやなもんで。




 ついに「待機」となってしまった。
 エボルタは今日、三条大橋の上に立つことができるのか。
 
 一服してキャドバリーのココアを飲んで、改めて見てみたら、なんと出発していた。
 日本時間なら8時にあたる。



 雨はどうだろうか。
 大津-京都は約12キロ。
 歩くと3時間ほど。
 私のときも行けばいけたが、早めにきりあげて大津で泊まっている。
 そして、翌日の午前中に京都へ入った。
 余韻を楽しむために、その日は京都で遊んでいる。

 エボルタだと4時間か?、あるいはもう少しか。
 三条大橋は昼ごろから1時頃になるが。

 しばらくして、覗いてみた。
 で、できたのがこれ。
 どうも10時の休息中だったようである。
 日本時間の10時15分である。





 さて走行が開始された。
 もう少しと思ったら、突然画面が停止した。




 「現在、番組はオフラインです」
 「現在配信されていません」
 横のツイッターに、
 「山が迫ってくるので番組の状況はあまりよくない状態が、1.5kmほど続きます」
と出てきた。
 なるほど。
 また、三条大橋はすごい人出だとの書き込みもあった。
 ついでに「残り3キロ」というのもあり、到着は1時半から2時頃だろうか。

 メッセージが出てきた。

 
現在、電波状況が悪く中継が途切れております。
 大変申し訳ありませんがしばらくお待ち下さい 。
 2 分前
INFO_EVOLTA


 あと2キロ弱とも出てきているが。
 配信の大半は止まっている。

『 
#EVOLTA 京都の街並みが見えてきました、ビータさん、あと500メートル。』
 ウソだろう。
 ちょっと待ってよ、
 間もなくゴールか~ 』
 エボルタ君チームの皆さん、ゴール目前で、のりのりですねぇ。 #EVOLTA 』

 どうも解釈ちがい。
 あと1.7kmほどか、というメッセージが入っていた。

『 
エボルタ君京都三条通西進中、ゴール三条大橋まであと1kmくらい 』

 1キロといえばあと20分あれば着くよな。
『 三条神宮道交差点付近で休憩 』
 なに、これ?

『 
お、休憩だ。画伯の新作? 』
 画像がないのでわからん。

『 
ラストの休憩♪ かな? だいぶ近いよ♪ 』
 きっと映像を回復させるための修理時間をとっているのだろう、と勝手に解釈しているが。

 日本では映像があるのだろうか?
 そんなことないよな、インターネットだもの。
 ワンセグか?

『 
天気的にあんまりのんびりしてられそうにないのが心配。なんとかもってくれ… 』

 こちらは陽が出てきているのだが。
 関係ないか。

『 
会場は雨模様に。 #EVOLTA53 』
『 
ここからなら歩いて10分くらいなのに・・・・行けない悲しさ・・・・ 』

 本当に映像はないのか?
 意識的にクライマックスの映像はカットしている、なんてセコイことやっていないよな。
 だって、オフラインが長すぎないか。

『 
三条大橋なう。エボルタ君を待つ人々。』
 待たされる方はたまらないよな、寒いのに。

『 
エボルタ君、残り2kmで、最後の大休憩の模様です 』
 え、まだ2キロあるの。
 2キロだとあと40分はかかるよ。

 やっと画面が出てきた。
『ライブ配信開始 2分前』



 ようし、と思ったのだが。
 次の画面は、
『ライブ配信開始 4分前』



 そして、写真の処理をしているうちに「6分前」になった。
 なら今は、何と「9分前」。
 そして「10分前」に変わった。

 だんだんだんだん遠くなる遠くなる
 三条大橋、遠くなる。
 今来たこの道、帰ろうか?


 突然、10分前が
『ライブ配信開始 0分前』
に変わった。
 いよいよ、動き出すか?

 エボルタには
 
「三条大橋で待っているから」
と言ったので、こうしてパソコンの前でキーを叩いているのだが。
 ああ、肩が凝ってきた。

『 
佛光寺本廟で雨宿り中 』、とあった。
『 
@3zaru あと2キロは後日リベンジという事で、この際、蹴上ステーションから電車でもいいよ』
『 
ワイドショーかなんかの 生中継に合わせるのかな~? 』
 いろいろ書き込みがあるが、どうも、この三番目の説にリアリテイがある。
 
『ライブ配信開始 3分前』に変わった。
 もうムチャクチャ。
『ライブ配信開始 0分前』、信用しないほうがいい。
『ライブ配信開始 30秒前』、おお今度こそ。

 いや、
『ライブ配信開始 1分前』に変わった。
 そして
『ライブ配信開始 2分前』

 こんなことやっている自分にあきれかえっている。
 「いいか、パナソニックなんて、絶対に信用するな!」
と、思ったのだが、今、日本に注文しているデジカメは
 「パナソニック LUMIX TZ-10」。

『 
雨足は強まりこそすれ弱まらず。 』
『 
@evoltatoukaidou 京都のほうも雨が本降りみたいですね。大丈夫かな?
 三条大橋まで頑張れ~☆#EVOLTA #EVOLTA53

 しばらく、クローズします。
 こちらは3時15分です。
 「3時のおやつは文明堂」
 カステラと渋いお茶が欲しいですね。
 でも、それは無い物ねだりというもの。
 アーノットのビスケットにココアで、午後のひとときを。
 最後の確認で、インターネットを見たら、スタート開始。
 そんな、3時のおやつは?
 音声はイヤホーンにしてありますので、ありませんがとりあえず映像を。
 またまた、著作権法違反。
 でも個人のブログに載せる程度のものはひっかからないはずだと思いますが。
 そのせいか最大で1分29秒しか動画できません。





 が、である。
 ちょびっと行ってメンテナンスに入る。
 あとわずかなのに、どうして。
 休みの間、なにやってたの?
 メンテナンスの間は配信されている。
 ということは、どうも時間調整らしい。
 再スタートする。
 が、これすぐにオフライン。
 なぜ、メンテの時は通じているのに、動きだすオフラインになるのだ?




『 
#EVOLTA 橋を渡れば、ゴール地点が…』
『 
信号を渡ったぞ。あとはゴールをくぐるだけ 』
『 
15時29分なう、橋を渡ってるなう 』『 ついに、GOA~~~~L!!! 』
『 
京都三条大橋到着! 』

 ゴールの映像はリアルでは配信されていない。
 セコイ、セコすぎる、あまりにセコすぎる。
 世界に冠たる大手メーカーのやることか。
 1カ月半もの長きにわたって、視聴者を引っ張り続けてきて、
 ゴールシーンの生中継はイタシマセン
ときた。
 まあ、シャアシャアと厚顔無恥で、よくもこんなエゲツないことやるよ。
 その無神経なズ太さには感心してしまうが。

 私なんぞは中抜きでみているからいいが、ゴールの感動をわかちあいたいという、まともに見ている人にとっては
 "腹ワタが煮えくりかえる"
思いだろうな。
 同情します。

 「はやぶさ」の結末が見事すぎたのかもしれません。







● 花いろいろ

2010年11月19日金曜日

エボルタ、東海道道中記(3):ひどく後味の悪い幕切れ 

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● 東海道五十三次駅伝

 
[◇ 11月19日]
 エボルタは今日、草津に着いたという。
 とすれば、あとニ宿、大津と京都である。
 ゴールは目前。
 順調にいけば二日。
 ということは11月21日にはゴールする。
 なんと日曜日である。
 絶妙なタイミング。
 きっと三条大橋は黒山だろう。

 今から10年ほど前のこと。
 友人が仲間たちと2年ほどかけて「東海道53次駅伝」をやった。
 おそらく1999年、2000年、2001年であろう。
 みな仕事もちなので時間調整をして、4回にわけて走っている。
 その最終回が前稿で突然割り込んできた手紙である。
 この稿頭に載せた写真はその手紙から援用したもの。
 「箱根駅伝が来る」でも紹介したグループです。
 このあと、中仙道を走り、今年は日光街道を走っています。

 手紙の一部を。







● 関宿



[◇ 11月21日]
 あれ、今日ゴールのはずだと思って約束通り、ゴール姿をみてやろうとサイトに入ったら、動いていない。
 「今日はお休み?」
 そんなことどこにも書いていない。
 雨なのだろうか。
 本当にこの発信スタイルはわからない。
 スタッフの自己満足でやっているように思えてならない。
 見たいヤツは勝手に見な!
 って、ところか。
 昨日は大津に着いたところを見て、いよいよ今日だと楽しみにしていたのだが。

 出発は明日朝6:00だという。
 まあ、あと一日だから。
 イヌにションベンかけられることもなく、
 ネコにジャレつかれることもなく、
 ミミズを轢くこともなく、
 石を踏み潰すこともなく、
 子どもの三輪車に曳かれることもなく、
 小学生のスクーターに蹴飛ばされることもなく、
 雨に打たれはしたが、泳ぐまでには至らず、
 ときどき歩道橋や信号では空を飛んだが、
なんとかあと一宿まできた。
 なかなかの根性である。


[◇ 11月22日]




 底意地の悪い連中の手によって「オフライン」のままエボルタは三条大橋にゴールしたらしい。
 すべてが「ブチコワシ」だ!

● エボルタ、お前は悪くないよ、よくがんばった。
  最後の雄姿を見てやることはアホどものおかげでできなかったが。
● 悪いのはガラパゴス退化した上の取り仕切り連中だ。


[◇ 11月27日]

[公式ダイジェストが入ってきた]


2010/11/15~11/17
エボルタ 東海道五十三次-道中記::  その15
関-坂下-土山-水口




 歩いていると京都方面から来た人とすれ違うことがある。
 そんなときは、情報交換をする。
 どこで泊まれるかということが会話のメインテーマ。
 つらいのは街の真ん中ですれちがうとき。
 日本の町というのは家が立てこんでいて腰をおろすところがない。
 では立っていれば、と思うがこういうときは腰を下ろして休みたい。
 しかたがないから空き地を探して数十mから100mほど歩くことになる。
 自分の向かっている方向に歩けばいいが、気が弱いせいかだいたい戻りになる。
 これ結構つらいのである。
 ここまで来たのにまた戻らねばならぬ。
 情報は欲しいし、しゃべりたいし。
 さらにはまた同じ所を戻って、気をとりなおして出発となる。
 わずかな距離なのだが、なにか疲れが倍化する。
 「損をした!」という気分が蔓延してくるのである。
 それが疲れを呼ぶ。

 鈴鹿を越えたあたりであっただろうか、京都からきたウオーカーに会った。
 スケジュールを聞いて驚いた。
 一日十里40キロで歩いていくという。
 ちょっと懐疑的になり、歩くことに慣れているのか、と聞いてみた。
 答えは「はじめて」
 「ちょっと、無謀じゃない」
と、言ったらスケジュールがとれない、とのこと。
 が、である。
 靴を脱ぎ、靴下をとると血だらけ。
 両足とも。
 豆が潰れて血が吹き出していたのである。
 「これで行かれるの?」
 答えはなかった。
 ただ非常に歩くのがきつそうだった。
 「大丈夫?」
 まだ、2日目の終りにしかならない。
 先が思いやられる。
 行かれるところまで、ということで本人は妥協するつもりなのであろうが。
 冷静に考えると無理。
 歩き慣れない素人にとって30キロというのは敷居値。
 マラソンと同じ。
 人間の体は30kmぐらいから急速にダメージが広がる。
 よって八里32キロはちょうどいい線。
 これを過ぎると、体がついていかない。
 文句をいいはじめる。
 過剰なマメであったり、 足のツリであったりする。
 が、人間にはとんでもないことが待っていることもある。
 無理を無理でやめてしまったら何も残らない。
 無理があるから面白いのだ、というのも人生。
 無理をしない人生というのは、気の抜けたサイダーみたいなものではあるが。
 私にもマメはできた。
 左右に2ケづつ。
 ただし水ぶくれレベル。
 血が出るほどの無理はしない。
 指先なら水を抜いて絆創膏で固めればいい。
 が、足の裏だと、これやっかい。
 まず水を抜いて絆創膏を貼るが、歩くと絆創膏がずれてきてほとんど効果なし。
 よって絆創膏の上にぎしぎしに包帯を巻いて、ソウーと靴下を履く。
 小一時間もすると、ありがたいことに痛みは感じなくなる。
 マメに気を使ったははじめの数日だけ。
 固まってしまえば、どうということもない。

 東海道旧道を歩くに際して資料を探した。
 いまならあっと言う間に、インターネットからダウンロードできる。
 その頃、情報というのは本であった。
 それも現時点で販売されている本である。
 本屋へいって目的に見合う書籍があれば情報取得となるが、でなければ情報なし、ということになる。
 よって数軒の本屋を回ることになる。
 欲しいのは旧道のルートが出ているもの。
 その場その場での名跡旧所などの載っている写真。
 そして持ち運びに便利な文庫版程度のもの。
 それにぴったり合うような本などありもしない。
 当時のこと、写真をふんだんに載せた本などなかった。
 でも文章だけでは、この旅ではまるで使い物にならない。
 なんとか探し当てたのが社会思想社の現代教養文庫の一冊「東海道***」という本。
 53次全編というわけにはいかないが、旧道の要所要所の写真と文が載っている。
 この本をバイブルにして歩いたのだが。
 この「***」の部分を確認しようと思って社会思想社を調べたら倒産していた。
 Wikipediaでは2002年に倒産とある。
 この会社の本、じつにいい本がたくさんあって、それもふんだんに写真が載っているものであった。
 その頃、写真満載の文庫本など実に珍しかったのである。
 ちょっと高かったが。
 ちなみに個人的なことをいうと、高校の友達がここに勤めていた。
 そこで、週末にここのマツダの軽ライトバンを借り出し伊豆にドライブにいったことがある。
 飯田橋近くにあった自転車屋の息子であった。


2010/11/18~11/20
エボルタ 東海道五十三次-道中記::  その16
水口-石部-草津-大津




 草津から大津あたりで3回くらいではないだろうか、天井川というのをくぐる。
 川底をくぐるのである。
 と言うと、坂を下って川底をくぐり、今度は坂を登って元のレベルに戻る、と思うがそうではない。
 道は真平ら。
 頭の上に川が流れているのである。
 まさに不思議発見である。
 イメージとしては、鉄道のガードをくぐることがあるがあれと同じ。
 電車の通っているところに川が流れているのである。
 これ、どう考えてもおかしい。
 
 その成り立ちをサイトからちょっとコピーしてみます。




 理屈は分かるがこれおかしい。
 川底のレベルがどんどん上がっていく。
 はじめは周囲の地盤面より下にある。
 が、最後の絵ではとなりの人家の屋根ほどになっている。
 ということは川底が3mくらい上がったことになる。
 だから、川底をくぐることになってしまう。
 水は高いところから低いところへ流れる。
 とすると、この川の流れは低いところから高いところへ流れることになる。
 この状態で水が流れるなら、はじめのときはこの周辺は水没していなければならないはずなのだが。



2006.05.10
草津川国道1号線トンネル
http://ahiru-ie.way-nifty.com/s2/2006/05/1_9e0e.html



● 国道1号線が、草津川の下をくぐっているところです

 草津川は、典型的天井川で、旧東海道も今はマンポ(トンネル)で川の下をくぐっています。
 現在、草津川は新しい河川を流れているので、国道の上に水は流れていません。
 ほかにも天井川は大津市にもありました。


 草津でもうひとつ。
 義仲寺。
 その名の通り、木曽義仲のお墓のあるところ。
 街道に面してたてられた石柱に「義仲寺」と彫られていたのですぐにわかった。




 が、木曽義仲はあまり興味の対象でなかったのでそのまま素通り。
 後年、この寺で松尾芭蕉がなくなり葬儀が行われ、墓は義仲の墓と並んでいるということを知った。
 おそらくバイブル「東海道***」にも書かれていたのであろうと思うが、若き日のこと俳句なんぞにはまるで無関心であった。
 いまもおおかたそうだが。
 芭蕉もいいが、蕪村の古今調の雅は捨てがたい、程度の知識。
 それより幾分、歴史の方が好き。
 よって義仲寺が記憶の残ったのであろう。
 


2010/11/22
エボルタ 東海道五十三次-道中記::  その17
大津-三条大橋




 エボルタが三条大橋にゴールしたのが22日。
 今日は27日。
 ゴールのニュースは記事で読んだ。
 が、ゴールのビデオをみたのは今日が最初。
 ゴールから5日目である。


2010/11/22
エボルタ 東海道五十三次-道中記:: 三条大橋(セレモニー)





 「もう一つの東海道53次」、駅伝のゴールは。







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 ひどく後味の悪い幕切れで、「エボルタの冒険」は終わった

>>


 来年のカンペイのゴールはどうだろう。
 期待しないほうがいいかもしれないが。
 でも、こちらはグローバル・カンパニーのトヨタがスポンサーだから、
 「世界へ発信」
という件についてはガラパゴス的ではないだろう。
 何しろ「アース:地球」を駆け抜け、世界にお世話になってきたのだから。
 パナソニックほどセコくはないだろう。

 ここで前もって声を大にして言っておこう。
 さすれば、検討対象の項目にリストされるかもしれない。
 我が家の車はトヨタのカムリと同じくヤリス(ビッツ)だ。
 トヨタさんよ、
 「カンペイのゴールシーン
はインターネットで世界中で受信できるようにリアルタイムできっと放送しろよ。
 世界に「感動を配信」しろよ。
 トヨタはその責務を負っているはずだ。
 セコイことはやるなよ。
 テレビ放送に合わせたければ、そのスポンサーとなって番組を買取り、テレビ放送とインターネット配信の同時発信ぐらいはできるはずだ。

<<
 世界のアースマラソン応援団を裏切るなよ!!!!>>

 北京中国トヨタの垂れ幕にはこうあった。


 寛平さん、ぐあんぶあれ!
 「わてら」トヨタはアースマラソンを「めっちゃ」応援します「っせ」


 「インターネット」と表現したら最後、それはすべてインターナショナルになる。
 Youtube 発信だろう。
 それを理解できないと、パナソニックのようにガラパゴス化するぞ。
 裏切ったら、ケチョンケチョンに書くからな。
 少々、脅し気味

 [言葉の暴力に気をつけよう!]






● 花いろいろ

2010年11月16日火曜日

エボルタ、東海道道中記(2)

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● 鈴鹿トンネル 1930年頃



[◇ 11月16日]
 エボルタは先ほど鈴鹿トンネルを抜けた。
 
 Wikipediaで鈴鹿トンネルを見てみる。


鈴鹿トンネル・新鈴鹿トンネル(国道1号)

* 鈴鹿トンネル(上り線 亀山・四日市・名古屋・伊勢方面)長さ : 276m
* 新鈴鹿トンネル (下り線 大津・京都・大阪方面)長さ : 395m

 鈴鹿トンネルは鈴鹿隧道とも呼ばれトンネル銘板にも、鈴鹿トンネルとは表記されずに鈴鹿隧道と表記されている。

 国道1号の当トンネルは鈴鹿山脈を南北に貫いているのに対し、新名神高速道路の鈴鹿トンネルは東西に貫いている。
 新名神高速道路の鈴鹿トンネルとは約2km離れている。

* 1922年6月20日 : 鈴鹿トンネル着工。
* 1924年7月20日 : 鈴鹿トンネル開通。
* 1967年3月06日 : 鈴鹿トンネル内にて車両13台が炎上する火災事故が発生。
* 1978年11月30日 : 新鈴鹿トンネル開通。
* 1991年5月15日 : 鈴鹿トンネル改築工事完了。


 鈴鹿トンネルが開通したのが1924年。
 つまり戦前。
 事故が起こったのが1967年。
 そして国道1号線には新たに新鈴鹿トンネルを造ることになる。
 これが完成したのが11年半後の1978年。
 事故が起きた旧鈴鹿トンネルは上り専用の一方通行に、新しく作られた新鈴鹿トンネルは下り専用の一方通行になるようである。
 エボルタが抜けたトンネルは走行中の車の向きからみると、旧鈴鹿トンネルのようである。
 ということは、以前事故があったトンネルになるが。
 残念なことに私はここを通過していない。
 事故トンネルの上を歩いていた。

 40年以上も昔のこと、この事故についてはあまり載っていない。
 新聞記者の回顧録がありました。



ブン屋のたわ言
http://home.r07.itscom.net/miyazaki/bunya/tawagoto.html#suzuka

【 鈴鹿トンネル火災事故 】

 四日市通信部にいる間にもうひとつ”わが国初”の事故を取材した。
 「鈴鹿トンネル内車両火災」である。
 ”初の事件・事故”というのはたくさんの教訓を残す。
 現在高速道はいうに及ばずあらゆる長大トンネルに入る手前に信号機があるのも、数十メートルおきにどちらの出口が近いかの表示があるのも、非常電話が設置されているのも、すべてこの事故と昭和54年の静岡県・日本坂トンネルの火災事故(文末にメモ)での反省から生まれたものだ。
 後年、静岡支局長として赴任したのでつぶさにトンネル内を見る機会があったが、鈴鹿の事故の教訓をもっと早く生かせたのではないかと思った。

※メモ 鈴鹿トンネル火災事故
 昭和42年(1967年)3月6日午前5時頃、国道1号線の三重県と滋賀県の県境にある鈴鹿トンネル(全長2446メートル)で起きた。
 三重県関町側入口から31メートル入った地点で、滋賀県側へ向かっていた大型トラックの運転席下部のエンジン部から出火し、運転席を焼き、次いで積載物のスチロール製アイスクリーム容器や段ボール箱に燃え移った。

 出火した大型トラックの運転手と助手は対向車のタンクローリーから粉末消火器を借りたが、使い方を知らずモタモタしている間に燃え広がった。
 さらに火災を知らずにトンネル内に入ってきたクルマがつぎつぎ立ち往生し、これに引火した。
 死者は出なかったが結局車両12台に延焼し、負傷者2名を出した。

 我が国最初のトンネル内火災の教訓はいろいろある。
 現場が県境の山中で、電話などの通報設備がなく、消防隊の到着まで1時間前後かかり、猛烈な噴煙と熱気が煙道化したトンネル内に充満した。
 消防隊は呼吸保護器や耐熱服の装備が充分でなく、内部に進入できずその間燃えるに任せたため本格的な消火作業に取りかかるまで5時間を要した。

 鈴鹿トンネルは鈴鹿山脈の南端に位置し、山脈を東西に貫く。
 トンネルのほぼ中央部に位置する安楽峠が県境で、三重県と滋賀県を結び、中京と京阪神の2大経済圏を結ぶ大動脈だ。
 鎌倉時代に鎌倉と京を結ぶ街道として発達した東海道は、江戸時代の東海道53次と呼ばれた時を経て、現在の国道1号線にいたるまでほぼ同じルートを走っている。

 管内といっても距離は相当離れていた。
 火災の発生は消防とほぼ同時にメディアは知るようになっている。
 私も現場に駆けつけるのにそう時間はかからなかったが、中がどうなっているのか皆目見当がつかなかった。
 「本記」(記事の根幹部分。発生時刻、運転手の名前、被害の規模など)は消防の発表もあるから書ける。
 雑感記事(これなら”恐怖の表情で語った”式のもの)と写真がむずかしいケースだ。
 運転手たちはみな脱出しているのだが、前の連中から「逃げろ!」といわれて引き返しただけで全体を把握している者はいない。
 そのうち「まだ中に取り残されている」というデマを口走る者も出てきて混乱に輪をかける。
 火災は中だから、外部からの写真はトンネルの入り口から立ち上る黒煙の光景ただ1種類。
 最大の難問は山の中で電話がない。つまり送稿手段がないのだ。

 離れた民家から支局に連絡を取ると、トンネルの反対側に大津支局や本社の社会部がいて無線機を持っているから、そちらに行けとのこと。
 県境の向こうは滋賀県甲賀郡土山町だ。
 山越えして合流すると山中のこととて無線が途切れてうまくつながらない。
 遠くの民家まで歩いて電話を借りるほかない。
 写真撮影にセスナ機が飛来したが降りられないから使い物にならない。
 撮影フィルムを託すため「ヘリをよこせ」と連絡すると、現場に臨時の簡易ヘリポートをつくれという。
 広場を確保してOKをだすと下りてきた我が社のヘリがローターで周りの茶畑を根こそぎ吹き上げたり、切断したりして補償交渉する羽目に。
 原稿より他の雑用の方が多いくらいだ。

 翌日だったか3日目だったか、ほぼ鎮火したというので撮影のためトンネルに入ることになった。
 壁面が落下する危険があるような場所に今なら消防が許可しないだろうが、このときは自己責任でOKだった。
 冒頭にあるように現場は三重県側、つまり私の持ち場から30メートルほど入ったところだ。
 臆病な社もいて、そいつのカメラともう1台テレビ局のカメラ、計3台を持って私が入った。
 懐中電灯で確かめつつ行くと猛烈に熱い。
 鎮火したといっても汗が吹きだし滴るほどの熱気だ。
 大急ぎでトラックの残骸をフラッシュをたいてカメラ3台分撮影して脱出した。
 ところがこの写真、撮影できていなかった。
 カメラに詳しい人なら分かるだろうが、肉眼で見えても、空気中の浮遊物にフラッシュ光が反射してみな煙にしか写らないのだ。



 公式ビデオを続けます。


2010/10/25~10/28
エボルタ 東海道五十三次-道中記::  その9 【COP10ステージ篇】
見附-<日没>-浜松-舞阪-新居




 浜松は大きな街であった。
 というより、疲れていて歩くのがしんどかった。
 まだかいな!、というので道路脇の一杯飲み屋の引き戸を開けた。
 なんと、もうお客が2,3人いた。
 その連中が、ぞろりと振り向いた。
 「すいません、浜松は何処ですか?」
 カウンターの奥のママさんいわく、
 「ここは、浜松よ」
 そうである、浜松である。
 なんと馬鹿な聞き方をしたのだろう。
 「いえ、アノー、浜松駅ですが」
 「このちょっと先よ、歩いて10分くらい」
 「ありがとうございます」
 そうそうに退散した。
 みっともない。
 でも駅まで、20分は歩いたような気がしたが。
 遠かった。


2010/10/29~10/31
エボルタ 東海道五十三次-道中記::  その10
新居-白須賀-二川



 だいたい1日8里32kmくらい歩く。
 と、近くにユースホステルがあると電話を入れて、
 「今日、泊まれますか」
と聞く。
 だいたい、泊まれるが、歩き終わったところからユースホステルまでのルートが問題。
 バスなどうまく接続していて近くまでいってくれればいいが、そうばかりともいえない。
 あるときのこと、なんとかユースホステルにたどりついたはいいが、翌朝、前の日に歩き終わったところまで戻らねばならない。
 どうしようかと思っていたら、九州一周のツーリングにいく2人組がいて、ホンダの125ccに乗っていた。
 無理に頼み込んで乗せてもらった。
 数キロのことだから向こうも聞いてくれた。
 こういうラッキーなこともある。
 そのころは、ヘルメット着用などは義務付けられていなかった。


2010/11/01~11/04
エボルタ 東海道五十三次-道中記::  その11
二川-吉田-御油-赤坂-赤坂-藤川-岡崎




 あるとき、女子高校生の2人組に出会った。
 同じように東京から京都までである。
 卒業記念で歩いているという。
 日程は20数日間。
 一日のスケジュールが正確に作られていた。
 まだ高校生の身分のため学校側がそうしないと許可しなかったとのこと。
 そして、泊まる街がきまると、そこにある学校に手紙を出して、
 「卒業記念で東海道を歩きます。つきましては宿泊所をご紹介ください」と。
 大半、okの返事をもらい、宿泊所を世話してくれたという。
 そういう宿泊施設のない街では、教頭先生の自宅に泊まることがあるとも言っていた。
 いろいろ手はあるものである。 


2010/11/05~11/07
エボルタ 東海道五十三次-道中記::  その12
岡崎-池鯉鮒(知立)-鳴海-宮




 いよいよ、
 「旅も終盤戦に突入!!」
とのことである。


 お話の途中ですが、突然、割り込みが入ります。
 「これ何?」
 クリックすると大きくなります。





 「豊明」とは鳴海宿の近くに位置する街である。
 ここから京都まで2日で駆け抜けようというスケジュールです。



● 鳴海宿


● 宮宿

 「宮」とはその名の通り熱田神宮のあるところ。
 駅伝ファンなら忘れられない場所。
 全国大学駅伝のスタート地点である。
 ここから伊勢神宮までがいわゆる「熱伊駅伝:あついえきでん」である。
 今年の優勝校は早稲田大学。
 久しぶり、渡辺康幸以来ではないだろうか。
 2位は職人集団・駒沢大学、そして3位は柏原を有する東洋大学。
 ということは、箱根もこの3校の激突の可能性が強い。

 もう一つ熱田神宮の話を拾うならなんといっても織田信長が今川義元を桶狭間で撃った時、必勝祈願した神社。
 この一戦で日本の歴史は大きく変わる。
 一気に戦国へとなだれ込んでいく。
 箱根駅伝は「下克上」という。
 桶狭間の戦いまさに下克上であった。

 宮から桑名までは海上七里の約28kmである。
 よって旧道はないので、1号線を一日ほどかけて歩くことになる。
 エボルタは8日、9日の2日をかけている。



2010/11/08~11/10
エボルタ 東海道五十三次-道中記::  その13
宮-桑名-四日市





● 桑名宿


 四日市といえば日本になだたる公害都市だった。
 石油化学工業の発展がもたらした四日市コンビナートは、中学校のころは教科書にもうたわれ日本経済の輝かしい成果であった。
 それが公害都市へとイメージを変えていく。
 都市公害といえば騒音。
 騒音規制が強くなり静かになった。
 もう一つ出てきたのが自動車排気ガス。
 「牛込柳町」という町の名前を覚えておられる方はおられるでしょうか。
 「牛込柳町鉛中毒事件」で検索できます。
 そこに住んでいた友達がいた。
 いわく、「何もない、迷惑だ」。
無鉛ガソリン ‐ 通信用語の基礎知識
http://www.wdic.org/w/GEO/%E7%84%A1%E9%89%9B%E3%82%AC%E3%82%BD%E3%83%AA%E3%83%B3

 1970(昭和45)年、東京都新宿区の牛込柳町交差点付近で、鉛中毒事件が発生した。
 これは、本邦初の、沿道大気汚染事例だとされている。
 集団健診で住民に鉛中毒が発見された後、その原因がガソリンに添加された鉛によるものだとの空説が飛び交った。
 当時のマスコミも、これを煽りに煽り、結果として有鉛ガソリンは廃止せざるをえなくなった。

 しかし、この交差点は実はそれほど交通量が多くはなく、実際に有鉛ガソリンの影響である可能性は、殆どないことが明らかとなったのである。
 毒性があるのは事実なので、廃止するに越したことはないが、それで誤報したことが正当化されるわけではない。
 今も昔も変わらぬ、マスコミのミスリード事件であった。


 牛込は隣町であった。
 公害が騒がれはじめた頃で、そのためか四日市では空ばかりながめて歩いた。
 

 公式ダイジェストを続けます。



2010/11/11~11/14
エボルタ 東海道五十三次-道中記::  その14
四日市-石薬師-庄野-亀岡-関









 <つづく> 






● 花いろいろ

2010年11月5日金曜日

春の海:四季の音色

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● 四季の音色



 日豪プレス11月号に載っていた記事。



 早速、行ってみた。
 受付でもらったパンフレットをコピーしておきます。








 一緒に折り鶴を3羽もらった。



 観客は残念ながら少々。
 当たり前のこと。
 なにしろ金曜日の午後。
 よほどのヒマ人でないと来れない。
 ということは私は、超ヒマ人ということになる。
 このコンサート、夜の部がありますので、今、書いているとき(8時だが)は会場は埋まっていることでしょう。
 日本にいたら生まれが粗野な私などは決して出向かないコンサート。
 同じ行くなら寄席にいってしまう。
 でもこういうところに住んでいると、妙に日本が近くに感じられる。
 日本にいれば行動範囲が狭くなり、カワズになるが、外からみるとなんとなく日本全体が見渡せる。
 そうか、こういう演奏会もお手軽に見に行かれるのだ、と感心してしまう。
 なにしろ、車でスーといって、スニーカーで会場に入り、日本を満喫できるのだから。
 日本のすべてがやたらと近くなり、見渡しがよくなる。

 尺八と琴の名曲「春の海」をユーチューブに載せておきました。
 御覧ください。



 さすがプロ。
 うまいなー。
 しみじみ聞かせてくれました。
 前半は現代風。
 後半はちょっと純和風。
 私などはここでの生活のためか現代風にフィットしやすくなっている。
 純和風だと、ちょっとトロク感じる。
 でもいいな。
 一番すごいなと思ったのは、尺八も琴もあんな吹き方弾き方があるんだ!
ということ。
 自由自在、といったところ。
 前にバンドに合わせて尺八でジャズをやったのをインターネットで聞いたことがある。
 あまりに合うので、驚き桃の木であった。
 尺八って、何でもありなんだろうか。




 春の海:
 Describing the ocean in Spirng with flying seagulls and big catch of fish


 


● 花いろいろ