2010年10月31日日曜日

ハロウイン:ジュニヤマスターシェフ

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● ハローウン


 今日、10月末日はハロウイン。
 夕方、散歩にでた。
 帰ってきたのは5時過ぎであったが、5時をすぎるころ歩道に2組みほどのハロウインの子どもたちが仮装して歩いている。
 まだ日は高い。
 ハロウインは8時までである。
 3時間も回れば相当のキャンデーが手に入るだろう。
 ということは、この辺の住人にとっては迷惑なことである。
 いったい何十人の子どもがやってくることやら。
 特に今日は日曜日で、子どもにとっては楽しみな曜日である。
 我が家はセキュリテーゲートの中の団地で外部からは入ってこないから、団地の子どもたちだけで安心していられるが。
 昨年は11人であった。

 前もってハイチューを25ケ用意しておいた。
 が、なんやかんやで2ケ食べてしまった。
 23ケというのは昨年の倍である。
 それでも、2ケ食べてしまったという後ろめたさで、スーパーマーケットで3ケ入のバターキャラメルを買ってきた。
 これで合わせて26ケである。
 
 昨年は7時半すぎにドヤドヤとやってきた。
 今年の最初は7時過ぎである。
 5人。





 写真に映っているのは4人だが、後ろのバギーに赤ん坊が乗っている。
 これはハロウインらしいまともな仮装。
 7時半に来たのが下の連中。
 5人でただ廻っているだけ。




 合わせて10人。
 これで終であろう。
 
 今日は日曜日、それも7時半。
 といえば今最高のテレビ番組、「ジュニヤ・マスターシェフ」
 7時半から1時間ほど。
 ハロウインもジュニヤだが、どうしてもそちらに興味はいく。
 録画機が壊れているので、カメラを合わせていた。
 最終バトルに入っている。
 最後は赤組青組の対抗戦である。

 まずは青組の審査結果。
 

 8時過ぎに外がガヤガヤする。
 8時05分、ドンドンドン。
 なんと、10人がやってきた。
 カメラは使えない。
 でも仮装なし。
 カメラなどいらない。
 ここにそんな子どもがたくさんいただろうか。
 どうも遠征部隊のようである。
 セキュリテーゲートといっても、車が通ったあとについて入れば難なく入り込める。
 それで終ではなかった。
 その1分後に2人。
 さらにその1分後にまた2人。
 アラブの女の子。
 トータルなんと25人。
 3ケ買い増ししていてよかった。 
 「ラスト」とその子どもたちに言って網戸を締めてしまった。
 それでも来れば「ダメ」とはいえない。
 残っているアメは1ケである。

 何かないか机の引き出しを探ってみた。
 サイコロが3つ見つかった。
 おお、これにバターアメをバラしてつければ3人分は確保できる。
 おみ籤キーホルダーがあったので、最後はこれで、ナントカ4人分となった。



 でも、これを使うことはなかった。
 年で上下が激しい。
 来年は30ケは用意しておかないといけない。

 
 そして赤組の審査結果


 これ実際は著作権侵害ですが、個人のブログに許されている範囲で載せてあります。
 なを「ジュニヤ・マスターシェフ」の公式サイトはこちらです。



Junior MasterChef Australia 2010 - Official Site
http://www.masterchef.com.au/home.htm






● 花いろいろ



【真っ赤に燃えた、太陽だから】




[◇]
 ちなみに、「料理の鉄人:アイアンシェフ」は昨日の土曜日に放送された。
 対戦は「オールフレンチ対オールチャイニーズ」。
 審査結果は引き分けであったが、鹿賀君の独断で「フレンチ」に軍配が上がった。
 Wikipediaより。


 鹿賀主宰2000皿試食記念対決 [編集]

 今大会は中華、フレンチから各ジャンル3名の料理人がチームを組んでの団体戦となった。
 1998年8月28日、9月4日放送
 出場者(太字は各チームリーダー)…オールフレンチチーム(坂井宏之、石鍋裕、城悦男)、オールチャイニーズチーム(陳建一、脇屋友詞、宮本荘三)
 テーマ素材…豚肉、すっぽん、バナナ(いずれも鹿賀の好物である)

* 審査員…栗本慎一郎、石井苗子、福井謙二、岸朝子

ジャッジ表
チーム 栗本 石井 福井 岸   合計 得票
全仏   19  19  20  19   77   2
全中   20  20  19  18   77   2

両チーム同点だが鹿賀の独断でオールフレンチチームの勝利。




 1998年8月,9月とあるから、12年前になる。




[◇ 翌日]
 打ち捨てられたパンプキン。





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2010年10月27日水曜日

あらー、またカメラが故障!

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● これなんでしょう?


 カメラが戻ってきたのが9月のはじめ。
 そして10月の中頃から、またまたおかしくなりはじめてきた。
 前回は初期不良でレンズの交換で、いうなればハード的な故障。
 が、今回はおそらくソフト。
 故障が出たりでなかったりするからだ。
 上の写真はそのエラー写真です。
 これなんだかわかります?
 花です。
 横縞模様が入って暗くなり、ほとんど判別不能。






 風景を撮るとこんな感じ。
 昼間なのに夕方のようになり、テレビの走査線のような縞が全体をおおっている。
 シャッターを押すと、一瞬スクリーンが真っ青になる。
 これでエラーがわかる。
 こういうときに撮った写真は必ず横縞写真になる。

 では動画を撮ったらどうなるか。
 サンプルを挙げておきます。








 シャッターを切る。
 見ていただければわかりますが、ものの1秒ほどでジワーリと赤っぽくなってくる。
 次に縦縞の雨のような傷が出てくる。
 これ常に発生するものではない。
 出たりでなかったりである。
 これが出たら、その後はしばらく使用できない。
 時間をおいてからテストすると、正常に復帰していることが多い。
 しかたがないので昨日今日はカメラを2台持って出かけていっている。
 今のカメラは10倍望遠なので遠くの動画を撮るにはかかせない。
 古いのは5倍望遠なので動画は苦手。
 5倍だと写真に撮ってパソコンで拡大して必要部分を切りだしてくるようにする使い方をしている。

 どういう条件だとこの症状が出るのか調べている。
 故障が自動的に直るということはないから、これから徐々に出てくる頻度が高くなってくるだろう。
 ある敷居値を越えると確実に出るようになるだろうが、そのときは諦めて修理に出すことになる。
 それまではカメラの気分のいい時を見計らって使うようにしたい。
 10倍望遠は、5倍望遠にくらべてやはり使い易い。
 早急に修理に出したくないのはそのせいである。
 3年保険に入っているので、使えるところまで使いたいというのが本音。
 というのは日本に修理にだすとまず1カ月はみないといけないからである。
 
 購入したのは昨年の9月の頭。
 それから1年経たずでレンズ交換。
 1年少々でこの故障。
 ちょっと、びっくり。
 99.99%の品質管理の10,000台目の生産品に当たったのが身の不幸と諦めるより仕方が無いけれど、でもネー!
 修理に出して直ってきても、2度あることは3度ある、という不安を抱えているのはどうも精神衛生上よろしくない。
 通常、2度あったら3度はないものである。
 がもし、3度目があるとすると、それは致命的な結果をもたらすことになるので、2度あったら十分すぎるくらい注意しろ、というのがこの格言の本当の意味であろう。
 でもいくら注意していても、なにしろ機械のこと、どうにもならない。
 「もう、大丈夫ですよ」と言われても、何か出るんではないかという不安が残り、やはり心理的によくない。
 もう一台買わないといけないだろうかと考えている。
 買うなら、もう少し品質の安定していて、バージョンの高いものにすべきではなかろうか、などと思ったりもしている。
 古い方のカメラはガレージのコンクリート床に落としてしまったことがある。
 衝撃で蓋が開いてバッテリーが飛び出した。
 これは完全に私のミスであり、マジッたかなと思って調べてみた。
 バッテリーロックは壊れていた。
 が、カメラ機能にまったく損傷はなかった。
 正常に動作する。
 バッテリーは蓋をすることで固定できるので、ロックが壊れても支障はない。
 さほどに丈夫なカメラを作っているのに、今回の連続2回の故障はどうも解せない。




[◇ 2010/11/07]



 突然、アリャー!
 ハレーションを起こしたみたいになった。
 スクリーンに写ったのがそのままメモリーされている。






 そして、グレーゾーンに突入。





 でも5枚で回復。
 本当のターゲットは、これ。




 数十枚撮った写真が全滅してから10日間ほど。
 この期間は順調であった。
 が、ずっこけた。
 でもすぐに復調。
 やはり、このカメラ、ソフトが甘いようですね。
 Fuji は老舗のメーカーだがエレクトロニクスには若干の遅れがあるように思う。
 ダイヤルやスイッチ、シャッターの反応も鈍い。
 この方面で強いといったら、なんといってもカシオ。
 カメラもレンズの時代からソフトの時代に入ってきて、カメラメーカーも浮き沈みがあるようです。

 新しいカメラをいろいろ調べてみた。
 これからはミラーレス一眼レフの時代へ。
 でもお値段が高い。
 その分、旧タイプの三角山の一眼レフが安くなってきている。
 どうせ素人が使うカメラ。
 でもねえ、あの「バカでかさ」はどうも。
 マニヤにはいいだろうが、だいたい「AUTO」でのみ使っている老人にはチーと難しい。
 このところ観光地ではキャノンやニコンを首にぶるさげた人をよく見かける。
 振り返ってみると、以前はこちらで一眼レフを持った観光客はよほどでないと見かけなかった。
 だいたい、撮りっきりカメラが主流であった。
 昔は日本も一眼レフの首掛けがはやった時代があった。
 その後は「写ルンです!」になって、急速に一眼レフが観光地から消えた。
 これは、プラスチックレンズの高性能化によるものであった。
 プラスチックでもガラスレンズに対応できるほどの精度が出せるようになったためである。
 それでカメラはレンズの時代から「写ルンです!」に大きく舵を切った。
 さらにそれに追い打ちをかけたのが、エレクトロニクスのメモリー集積度。
 これにより、フィルムがチップに変わった。
 「写ルンです!」が「めもレンズ」とか「めもメラ」に移った。
 フィルムカメラが消えた。
 レンズの精度技術はカメラではもう末端の問題でしかなくなった。
 そこで新しい企業が参入してくる。
 カシオ、ソニー、パナソニックなど。
 旧カメラの中には撤退するものも出てきた、コニカミノルタ。
 もはや一眼レフはミラーレスの時代に来ている。
 首にカメラをぶらさげて闊歩するのはみっともなく恥ずかしくなってきている。
 まあ、それはアジアの海外観光客の方にまかせましょう。

 カメラは手のひらにスッポリ収まらないとカメラとは言えなくなってきている。
 ミラーレスならなんとかその要求を半分くらい満たしてくれるのだが。
 でも、まだまだ高い。
 エレクトロ製品の宿命、あと少し待てば価格破壊が始まる。
 ちょっと待てばいい。
 さてその間、この何時使い物にならなくなるかわからないソフトの弱い Fuji に変わるものは。
 カシオをあたってみた。
 どうせ買うなら、この Fuji より仕様の上のものが欲しい。
 仕様といっても私の場合、光学望遠の倍率のみが評価対象。
 この Fuji は270mmである。
 カシオのデジカメは240mm、ちょっと少ないね。
 300mmで調べてみた。
 「リコーCX3」と「パナソニックLumix:TZ10」の2つ。
 リコーの有効画素数は「1000万」、パナソニックは「1210万」とある。 
 リコーの「クチコミ」にこうあった。
『 
 個人的なお勧めは、優秀なオート機能とマニュアル機能がついたTZ-10やキヤノン30Sです。
 基本はオート機能頼りで、遊びたい時にマニュアル操作。
 高倍率ズームならTZ10。
 室内を考慮するなら30S。 
 時間があれば、この2機種もさわってみてください。


 もうちょっと調べてみないと。




● 花いろいろ

2010年10月13日水曜日

カンペイ、万里の長城を触る

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 2010.10.12 18:20 [DAY665]
 タッチ!タッチ!万里の長城

 昼食を取って1キロほど進むと
 寛平さん「ずっとあったんや、ずっと(城壁を)歩けるようになってたんやな」
 そこには万里の長城の名残りの城壁が…
 そして万里の長城に近づき、タッチ!
 寛平さん「土とか砂とかでそんなんで固めてんやろな…土やな!」
 そんな歴史を感じながら本日のゴールへ向かっていきました。


 カンペイが万里の長城につきました。
 ビデオで。



Day665
http://www.youtube.com/watch?v=0fhV0HjCOcQ&feature=player_embedded#!

万里の長城


 カンペイが走っているところが、万里の長城の西の端の近くになるようです。
 ちょっと調べてみました。
 万里の長城の西端は現代地図でみるとその遺跡の残っている場所は東経100度の向こうになります。

 サイトから。


万里の長城の西の端は、川の断崖の上で終わっていました(中国)
http://blog.goo.ne.jp/k_1sh11/e/0b5d8e7d297ac278f275b2bda0fdadc6



 万里の長城は秦の始皇帝が北方からの外敵に備えて作ったものと言われていますが、現存する長城の大部分は14~17世紀の明代に作られたものです。
 明代長城は渤海湾に突き出した老龍頭を東の端にして、西は嘉峪関の南西にある長城第一とん(土へんに敦)で北大河の断崖の上で終わっています。

 一方、長城の要所に作られた関所で最も西にあるものが嘉峪関ですが、長城第一とんとの間には民家の土塀のような長城の名残が砂漠の中に切れ切れに続いており、その向こうを西域に向かう列車が通り過ぎていきます。

 長城第一とんは、高さが4~5mほどの四角い土の塊があるだけで、表示が無ければそれとは解らないようなものです。




万里の長城(甘粛省嘉峪関)
http://yoshidanoharuo.web.fc2.com/Houses/ie_cn_kansk_banri.html



「万里の長城」の西の端

 正面の山は「祁連山脈」、その後ろには雪を頂いた「党河南山山脈」。現存する“万里の長城”は、党河南山山脈の手前の「敦煌」の東で終わっている。

 西域の「万里の長城」の壁は、黄土を固めてつくった「版築構法」の壁&生土の日乾し煉瓦製の壁で出来ている。

※「版築構法」:黄土は、粒子が細かく乾燥すると非常に固くなる特性がある。角材を横たわせて箱形のようなもの(長城の場合は、長さ1.5m前後×間隔3~4m×厚さ10cmほど)を作り、その中に黄土を入れ少しずつ杵でつき固めていく方法。一度にできる高さは10cmだけ。この作業を何度も繰り返し、高さの3~5m防壁を作った。


 万里の長城といえば「秦の始皇帝」
 歴史地図に秦のときの万里の長城と現代の万里の長城の位置が載っていました。
 これによれば東経105度くらいが長城の西の端になる。




 この秦帝国を滅ぼしたのが、あの「項羽と劉邦」



 この物語は司馬遼太郎の本で手軽に楽しめる。
 そして劉邦が項羽を滅ぼし、漢帝国を建設する(前202年)。
 漢字、漢文など日本文化にすこぶる大きな影響を及ぼした国である。
 前漢は劉邦が作った帝国であるが、このとき万里の長城は東経100度を越えて建設されており、ほぼこの頂上を挟んで匈奴と敵対していたということになる。
 
いわばここが漢の国境ということになる。
 下の地図は「前二世紀後半」の世界からであるが、これを見ると万里の長城は敦煌まで延びている。



 それから約2千年の歴史が流れる。
 中国4千年の歴史は長い。
 漢人の帝国である明はモンゴル系のタタールと万里の長城を堺に対峙することになる。 




 そして、タタールが万里の長城を越えて侵攻を開始し、明を滅ぼす。
 蒙古系の帝国「清」が誕生する。
 この歴史地図でも万里の長城は東経100度を越えていますが、清帝国にあってはタタールと明が合併した国家であるため、万里に長城はなんの機能もせず打ち捨てられたということになります。



 そしてこの清がつい最近まで中国を支配し、日本と「日清戦争」を繰り広げるわけです。
 支配者の蒙古民族はモンゴルに帰り、あらたに漢民族の国家「中華人民共和国」が成立するということになる。

 ちょっと、万里の長城にまつわる歴史のお勉強といったところか。
 その歴史深き、万里の長城をカンペイが触っている。





[◇]

2010.10.13 17:00 [DAY666]
中国初のテレビ取材

 寛平さん「やっと来てくれましたか〜中国で」
 そうなんです。
 寛平さんのアースマラソンの噂を聞きつけ、嘉よく関のテレビ局が取材に来ました。
 取材といっても一方的に寛平さんがしゃべる感じだったんですけど、寛平さん
 「トラック、ダンプの運転手さん本当に色々応援してくれてありがとうございます。
これからチンタオまで行きますので、まだ3200、300キロあるんですよ!」
 「中国の皆さん、日本の人も宜しくお願いします!仲良くして下さい!! 僕は日本人です〜!ワオ!ワオ!ア〜〜メ〜〜マ〜〜!宜しく!」
と「アメマ」で日本、中国の平和の架け橋として貢献する寛平さんでした。
 放送は明後日だそうです。
 情報が入り次第お伝えします。


 カンペイが中国に入ったのが617日目。
 TVカメラが来たのが666日目。
 つまり入国50日後。
 東欧や中東の国々なら入国して出国してしまっている。
 大きいというか、おおようというか、とりたててニュースにするほどのものでもないということかもしれない。
 「なに!、我が国をカケッコで旅行するとな。アホなもの好きが!、そんなものにかかわっているほどわれわれはヒマじゃない」
 てなところか。 



2010.10.16 01:20 [DAY669]
中国初テレビデビュー!?

 一昨日、取材を受けたニュースが遂にオンエアーと聞き「嘉峪関新聞放送」というチャンネルで今か今かと待つ寛平さん。
 しかし・・・・ニュースは終わり番組は天気予報に「おいおいちょっと待てや〜」
 そして現場が「もう流れないのか・・・」とあきらめかけたその時!
 まさかのトップニュースに「日本友人?対人生」の文字と寛平さんが!
 しかし・・・大体、4分ぐらい放送され、寛平さんの生声は「ニーハオ!」だけでした。
 それでも、寛平さん「日本と中国がもっと仲ようなればええんや」と友好大使と目立つ為に張り切っています。



2010.10.16 00:10 [DAY669]
アメママン万里を走る!



 数十年前に寛平さんが考案した「アメママン」が遂にタイツになって再来!
 寛平さんのリクエストでニューバランスさんが特別に作ってくれました!

 寛平さん嬉しそうに「この万里の長城をアメママンが走りましたよ」。
 そこには懐かしくも斬新なキャラクター「アメママン」が楽しそうに万里の長城でジャンプしてます。
 寛平さん朝から「アメママン」がずっとお気に入りで「これいいやろ〜」と、皆に見せびらかしているんです。



 万里の長城見学へ。

Day668  万里の長城
http://www.youtube.com/watch?v=5rphIkeR2is&feature=player_embedded






[◇]
 670日目の話だが、映像にバタバタというエンジンの音が入ってきた。
 オート三輪が走っていました。
 いや画面に向かって「オート三輪だ!」と小声をあげたら、サポートの辻さん
 「うわ、三輪で走っている。あれ三輪で走っていますよね」と。
 カンペイ曰く、オート三輪。
 「ア、オート三輪か。四つのうちの一つなくて走っているかと思った」
 ----
 「ビックリした」
 私などは、ダイハツだろうか、マツダだろうかとじっくり見てしまった。
 まさかくろがねとか日野オリエントということはあるまい。
 あの形だとヂャイアントということもないだろう。
 中国ではオート三輪を作っているのだろうか。
 ちなみに、翌671日の冒頭にこのオート三輪の話が出てきた。
 視聴者のみなさんもいろいろな意味で関心があったのだろう。
 なをこの日、青島まで2,500キロを切ったということです。
 東海道5回分走れば、次は日本となりますね。





● 花いろいろ

2010年10月9日土曜日

一風堂、渋谷のデイスカウントショップではないのか?

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● 一風堂TAO

Tao Taiko Group Gaijin Guide
http://www.youtube.com/watch?v=tyAbhtVaZZQ&feature=related




 昨日、でかまるこからメールをもらった。

 最近、仕事上飲食業界のニュースを探していたら、おもしろいのみつけた。

 食とエンターテイメントを融合させた、新しいラーメンレストラン「IPPUDO TAO」が、福岡天神とシンガポールに続き9月1日、銀座にオープン!

http://food-stadium.com/headline/001041.html


 ちょっと、覗いてみる。

FOOD STADIUM 2010.09.16
http://food-stadium.com/headline/001041.html

 食とエンターテイメントを融合させた、新しいラーメンレストラン「IPPUDO TAO」が、福岡天神とシンガポールに続き9月1日、銀座にオープン!

 「博多一風堂」を展開する力の源カンパニーは、食とエンターテイメントを融合させた、新しいラーメンレストラン「IPPUDO TAO」を、福岡天神とシンガポールに続き、9月1日銀座にオープンした。 
 3号店目となる「IPPUDO TAO TOKYO」を日本の中心である東京・銀座に出店し、「IPPUDO TAO」という新しいパッケージを全世界に展開していくためのフラッグシップショップと位置づけている。

 「IPPUDO TAO」は、大分県久住をベースに世界中で活躍する和太鼓集団「TAO」とのコラボレーションによって生まれた、新感覚のエンターテイメント・ラーメンレストランだ。
 店舗のコンセプトは、“日本のかっこよさを世界へ”。
 “日本のかっこよさ”とは、独特の間合いの良さや動きのきれの良さ、リズムの良さ、連帯感。
 この間合いやリズム、連帯が、TAOの音楽の特徴であり、双方のコンセプトが一致したのだという。
 兼ねてから「Ramen(ラーメン)」を世界標準語にと志向してきた一風堂が、世界進出を行なうに当たってのパートナーと出会った瞬間であった。

 そして、今年4月には福岡市天神に新コンセプトラーメン店「IPPUDO TAO FUKUOKA」、7月にはシンガポールに「IPPUDO TAO SPG」を出店した。
 シンガポールでは、日本の職人の働く姿の美しさや日本人の粋の良さ、和を感じさせるモダンな店造りがうけて、大きな話題を呼んでいる。

 店内には、TAOのダイナミックな和太鼓演奏の映像が流れる。
 メニューは、力強いサウンドにインスパイアされ、“音(サウンド)”が“味(テイスト)”へと変換されている。
 大太鼓の音と広がりをイメージした「TAO・黒」(850円)は、黒香油と極太麺が特徴のとんこつ醤油ラーメン。
 情熱と締まった切れ味の締め太鼓の音をイメージした「TAO・赤」(850円)は、18時間煮込んだとんこつスープに辛みの効いた味噌をトッピングし、アクセントに香油をプラスしたうま辛とんこつラーメン。
 辛さは、5段階から選べる。また、スタンダードメニューである、極細とんこつラーメンの「一風堂・白」(750 円)も取り揃える。
 博多細麺の替玉は150円で用意。定番商品のカリッと焼いたオリジナルの「ひとくち餃子」(420円、ハーフ220円)も、楽しめる。

 今後、「IPPUDO TAO」は、アジアでは韓国や中国に、ヨーロッパではアムステルダムやロンドンなどへの展開を考えている。
 目標は、5年後までに12~13カ国で30~50店舗の出店。

 「Ramen(ラーメン)」を世界標準語に。
 今回の東京・銀座への出店は、世界進出を見据える一風堂にとって、大きな足がかりとなることだろう。


 なんとも、なんとも。
 ならと思い「IPPUDO TAO」で検索してみた。
 これ、あるのです。


TAO 一風堂
http://www.ippudo.com/tao/


●  2010.09.01 銀座に「IPPUDO TAO TOKYO」をオープンしました。

日本のかっこよさ、世界へ。

 博多一風堂 Collection.TAO いよいよ始動!

 食を通じて世界中に笑顔とありがとうを伝えたいとい願う一風堂。
 久住に拠点に和太鼓を通じて世界中にジャパネーズ・スピリットを届けたいと日々、鍛錬に励むTAO。
 食とエンターテイメントという異なる土俵ながら、世界中にジャパニーズ・スピリットを伝えていきたいと願う想いはひとつ。
 「日本のかっこよさ、世界へ。」
を、キャッチフレーズに「元気」「活気」「笑顔」で日本人の誇りを、働く姿の美しさを、かっこよさを、世界中に伝えていきたいと想います。

 メニュー


● TAO・黒
 一風堂自慢のとんこつスープにドカンと醤油ダレ。
 食べ進むと醤油の風味が広がるとんこつ醤油ラーメン。ピリッと引き締まる黒香油に麺はスープのインパクトに負けないもっちもち極太麺。TAOの力強さ、躍動感を表現したラーメンです。


● TAO・赤
 18時間煮込んだ自慢のとんこつスープに一風堂の辛か味噌をアレンジした味噌をトッピング。
 アクセントに香油をプラスしたうま辛とんこつラーメンのTAO・赤。TAOの情熱を表現した一品です。(辛さは普通の他、一辛から五辛まで選べます)


● TAO・白
 博多もんがこよなく愛する極細麺ラーメン。
 一風堂・白は博多ラーメンの原点に返ったとんこつラーメン。シコシコの細麺に絡むスープは豚骨の深い旨みを主張しています。


 過る若き頃、「一風堂」といえば、渋谷のデイスカウントショップに決まっていた。
 金欠の日々、ここにいって昨今の世の動きに取り残されないように探ったものである。
 それからしばらくして、一風堂はロックバンドになった。
 そして、今はラーメン屋さん。

 あるサイトにこうあった。


一風堂
http://www.nakata-jp.org/music/ippu-do.html

 今、一風堂と言うとラーメン屋を指すようですが、 昔、一風堂と言えば、一にバンド、二に渋谷のディスカウントストアでした。
 今でも、私にとってはそうです。


 Wikipediaでみてみよう。

一風堂(いっぷうどう)

* 渋谷にあるディスカウントストアの店名。
http://www.shibuya.info/S82062.html


* 土屋昌巳、見岳章らによって結成されたニュー・ウェイヴ系ロックバンド。
 「すみれ September Love」のヒットで知られる。
 グループ名は、上記のディスカウントストアの店名から取られたものだと言われる。
 一風堂 (バンド)を参照。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%80%E9%A2%A8%E5%A0%82_(%E3%83%90%E3%83%B3%E3%83%89)


* 福岡県福岡市に本店がある博多ラーメン店の名称、博多一風堂。
 京浜・京阪地区を中心に全国展開している。
http://www.ippudo.com/historical-fact/history.html


 「一風堂とは福岡県福岡市に本店がある博多ラーメン店の名称。一風堂が産声を上げたのは1985年10月16日。」
 「一風堂(いっぷうどう)は日本のロックバンド。 1979年 バンド結成。バンド名は渋谷のディスカウント・ストアの名から名付けられた。」
 ちなみに、「渋谷一風堂」がいつできたか調べてみたが分からないが、バンドがその名前を採ったということは、1979年以前になるということになる。
 ということは、渋谷一風堂、バンド一風堂、博多一風堂となり、やはり渋谷が一番古い。
 「元祖一風堂」は渋谷の安売り店である。

 元祖争いはどうでもいい。
 ラーメン屋に戻ろう。
 日本のかっこよさ、世界へ。
 これに似たキャッチフレーズ、聞いたことありません?
 そう、「
クール・ジャパン」です。
 「かっこいい」とは「cool」と訳されます。
 クール・ジャパンといえば、アニメにコスプレが定番。
 私も連れションでクールジャパンを書いたことがある。
 が、寂しいかなアニメとコスプレの知識がまるで乏しかった。
 そこで取り上げたのが、ここに演奏にきた「TAO」と、繰返し繰返し再放送される「アイアンシェフ」。
 クール・ジャパンにTAOとアイアンシェフは場違いかもしれないが。
 この「色々あって」でもTAOとアイアンシェフを書いているが、これはその時の延長線上にあたる。
 この時期、ラーメン屋一風堂は開きなおって「クール・ジャパン」とはせずに、「日本のかっこよさ」ともろ日本語そのままで押してきた。
 なかなか、やりおる。
 たしかに、TAOはカッコいい。
 「なにー、TAOがくる、それいけ!」
と、チケットを買いに走る身。
 で、ラーメンは?
 実を言うと私は一風堂ラーメンなるものは過去に一度も食べたことがないのです。

 アイアンシェフではスシを取り上げたが、この稿はラーメンである。
 それも、TAO風ラーメン。
 でも、これなんだかサッパリ分からない。
 ラーメンと和太鼓がどうつながるのであろう。
 わかっているのは「和太鼓TAO」という切り口をもって、一風堂ラーメンが世界に進出する野望をいだいていることだ。




● IPPUDO TAO SINGAPORE
207 River Valley Road #0-55/56
UE Square Singapore 238275
Mon-thurs:11am to 3pm / 5pm to 12am
Fri-Sat:11am to 3pm / 5pm to 2am
Sun:11am to 11pm


● IPPUDO TAO TOKYO

 ニューヨークに進出した一風堂がえらく人気がいいようである。

All About アーカイブス
http://allabout.co.jp/gm/gc/67088/




『一風堂』の英語版公式ウェブサイト
http://www.ippudo.comy/




 そばもうどんもラーメンも「ヌードル」である。
 もし分けるなら「Soba Noodle」であり「Udon Noodle」である。


 ラーメンとは「日本風中華ソバ」である。
 でも「ジャパニーズ・チャイニーズ・ヌードル」とは言わない。
 中華料理にラーメンなるものはない。
 ヌードルは中華料理のみならず、マレーシア、タイ、ベトナムとアジアのあちこちにある。
 お手軽「カップヌードル」を除けば、ヌードルはいまいち人気がない。
 なぜか?
 それは、
 「音をたてて食べる
という食べ方が敬遠されるからである。
 日本の食事作法は、食事中はおしゃべりしてはいけないが、食べるときに音を立てもいい。
 くちゃくちゃ口を開けて食べてはいけないが、口の中に入るまではおいしそうに音を立てて食べるのが料理を作った料理人ヘのマナー。
 西欧式だと、食事中はおしゃべりしてもいいいが、音を立てて食事してはいけない、と全く逆になる。
 ナイフ・フォークが激しくお皿にあたったり、スープを飲むときいかにスプーンから器用に無音で飲むかが食事のエチケットとされる。
 しかし、ヌードルのもてる悲しみか、食べるときは「ズルズル」という音がどうしても出てしまう。
 それが嫌われる。
 ちょうど、スシの「ブラックペーパー:のり」と同じタブーである。
 
 映画「ブラックレイン」ではニューヨーク警察の刑事が高倉健の自宅に招かれたが、そのときの食事が「そうめん」であった。
 高倉健の家族が盛大にズルズルと素麺をすする音を、いかにもエチケット知らずの野蛮人風がやりそうなことだということを強調するかのように大げさに撮影していた。

ブラックレイン 予告編
http://www.youtube.com/watch?v=x25dMvrH6iI




 海苔のタブーがいつの間にか消えたように、音のタブーが消えないことには、ラーメンはなかなか浸透しないだろう。
 ただ、カップヌードルがヌードル食事の先達をしたとすれば、ラーメンは広く普及する要素を含んでいる。
 とすれば、できるかぎり音を抑えて食べる方法が生み出されてくるであろう。
 ナニ!、音をたてずにソバを食えだと!、ソバがマズくなる!
 でも、酢飯を普通ご飯にしたことによって「世界ズシ」になったように、なにかの工夫がないと「世界ラーメン」にはならないのではないだろうか。

 その工夫とは何か?

 きっと簡単なことではないかと思うのだが。
 たとえば「箸」に工夫をするとか。
 ヌードルを旧来タイプの箸で食べている間は限界があるかもしれない。
 といっても、昨今はこちらさんも器用に箸をつかうようになったが。
 あるいはスシが生魚をやめて、地元人の好みにあわさて変化できるシステムに変わることによって市民権を得たように。
 日本のものをそのまま持ち込んでもなかなかグローバルにはならない。
 「日本の文化」「日本の伝統」という壁を乗り越えないといけない。
 TAOがあれだけ発展できたのは、日本の和太鼓のしがらみから抜け出す発想があったからだ。
 和太鼓「和風」であるかぎり、エキゾチックで終わってしまう。
 ラーメンが「
日本風中華ソバ」であるかぎり、世界ラーメンにはなれない。

 さて、ゴールドコーストに「ヌードル戦争」が勃発することがあるだろうか。

(注:先に述べたように一風堂ラーメンというのを食べた経験がないので、料理についての意見を述べられません。)




[◇]
 日本食品店に寄ってみた。
 と、こんなものがあった。



 パック式の生の「ラーメンヌードル」と「ソバヌードル」である。
 ソバについては、生にすると延びてしまうので乾麺しかないと思っていたら、生麺で出ていた。
 いくらパックといったって水分を含むと延びてしまうのではないだろうか、日本そばは。
 


 裏を見てみる。
 soba noodle の説明をを拡大してみる。



 「traditional cold soba noodles」とあるのは本来の食べ方。
 その下にあるのが「世界不思議発見」
 「yaki soba noodles (sarves 2)」とある。
 つまりこんな食べ方もできますということであるが、焼きソバといえば中華麺がベースである。
 日本そばを焼きソバにするなどというのは、これまで聞いたことがない。
 「焼きうどん」というのがある。
 好きでよく食べている。
 おそらく伝統的なウドンの食べ方にはないだろう。
 「讃岐焼きうどん」なんて聞いたことはない。
 もしかしたらあるのかもしれないが。
 なら、そばだって食べることもできるはずだ、ということである。
 日本人の味覚だけで判断するな、ということ。
 日本そばが世界化するには、伝統的なものにしがみついていてはダメということである。
 常に新しいチャレンジが必要ということなのであろう。
 考え方の基本は寿司と同じということであろう。
 でも、日本そばって世界化する素地を持っているだろうか。
 ちょっと疑問なのだが。

 ラーメンだが「ramen noodle」と表示されている。
 ラーメンは中華にはない。
 ということは、ラーメンという日本語がそのまま名詞になったということであろう。
 「sushi」が世界言語になったように、「ramen」もそうなる可能性を秘めている。
 ようくこの麺を見てみると、うどんのように白い。
 一見、細うどん麺に見える。
 タイレストランやベトナム料理店などに行きヌードルを頼むと、「ライスヌードル」にするか「エッグヌードル」にするか聞かれる。
 ライスヌードルはつなぎにお米を使い、エッグヌードルは卵を使う。
 よってライスヌードルは白く、エッグヌードルはやや黄色い。
 ということは、このラーメンヌードルはお米つなぎということであろうか。

 ちなみに、これ「プロダクト・オブ・ジャパン」で、日本からの輸出品である。
 英文表示であり、ターゲットは「世界のみなさん」である。
 お値段はというと、1ドル30セント。
 日本円だと100円から105円くらいになる。

(注)
 Wikipedia より。

 ラーメンは、汁(スープ)に茹でた中華麺を入れた日本の料理。
 漢字表記は拉麺あるいは老麺・柳麺、別名は中華そばあるいは支那そばなど。
 ラーメンは中国の料理を起源として、日本の中華料理で発展してきたとされる。
 長い歴史の中で、現在の日本のラーメンは中国に元々あった拉麺の麺料理文化とは異なる日本独特の食文化に進化を遂げており、中国・台湾など東アジア圏では日本拉面、日式拉麺と呼ばれている。





● 花いろいろ

2010年10月7日木曜日

ナンシー関 & リリー・フランキー

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● 1996/06



● 2006/12


 1年ほど前になるだろうか。
 古本屋でえらく表紙がつるつる白生地のカバーで覆われた本を見つけた。
 上と下に金糸の線が入っている。
 作者はリリー・フランキーとある。
 ということは、翻訳ものであろうかとみてみたが、訳者の名前はない。
 「東京タワー」とあったが、「京」の字が少し変わって手が入っていた。
 外国作家の書いた東京ホラー物語というのがカバーから受けた印象。
 作家が日本人だとすると、フランキーで思い当たるのはフランキー・堺。
 リリーとあるから、フランキー堺の娘が書いたホラー作品だろうか。
 東京は乾いたホラーになり易い土地柄である。
 でも、パラパラとながめてみて、著者欄に目を通すと、フランキー堺とは関係ないらしい。
 そして、これが大切なのだが、男のようである。
 「リリー」という名の男。
 ゲイだろうか。
 ゲイが書いた東京ホラーか。
 これはありそうな設定である。
 まあ、ケバイ表紙だが買っておこうと思った。
 自宅に帰って、そのうち読むだろうと本棚に突っ込んだ。
 突如、ガガガーン。
 何と、その下の欄に同じくケバイ表紙の本「東京タワー」が鎮座していたのである。
 何時買ったのだ、この本。
 まるで「記憶にございません」
 まさに、ゲイ的ホラーである。
 この小さい街の古本屋から同じ単行本を2冊も買っている。
 なんとも、おどろおどろしている。
 古本屋の棚で単行本が2冊あるのを見たのは「アルジャーノンに花束を」と「ハリーポッター 賢者の石」のみ。
 文庫本なら赤川次郎もので3冊4冊は同時に並んでいるが、単行本は珍しい。
 その珍しい現象として我が部屋の本棚に無意味にも2冊あるのは「東京タワー」。
 同じ本を2冊もっていても、倍知的になれるわけでもない。
 これはどうも後ろで糸を引く「見えざる手」があるような気になってくる。
 「ヨメ!、ヨメ!ヨメー!
と脅しをかけられているようなイヤーナ雰囲気。
 「えーい、読んでやるよ
と、しかたなく読んでしまった。
 ストーリーは確かにおもしろい。
 これ小説か、それとも自伝か。
 「肝っ玉カアさん」風でもある。
 ストーリーがおもしろいので、これ映画になったり、テレビドラマになったりしている。
 一時、評判の作品だったらしい。
 ストーリーはさておいて、この作品のきらり光ところは、なんたってところどころにちりばめられたクールに見つめる作者の目。
 たとえばこんな風。


 春になると東京には、掃除機の回転するモーターが次々と吸い込んでいくチリのように、日本の隅々から、若い奴らが吸い集められてくる。
 暗闇の細いホースは、夢と未来へ続くトンネル。
 転がりながらも胸躍らせて、不安は期待がおさえこむ。
 根拠のない可能性に心ひかれる。
 そこへ行けば、何か新しい自分意なれる気がして。
 しかし、「トンネルを抜けると、そこはゴミ溜めだった」

 埃がまって、息もできない。
 薄暗く狭い場所。
 ぶつかりあってはかき回される。
 ぐるぐるぐるぐる、ぐるぐるぐるぐる。
 愚鈍にみえる隣の塵も、無能に思える後ろの屑も、輝かしいはずの自分も、ただ同じ、塵、屑、埃。
 同じ方向に回され続けるだけ。
 ぐるぐるぐるぐる、同じゴミだ。
 ほらまた、やってくる。
 一秒前、一年前の自分と同じ。
 瞳を輝かせた塵、屑、埃。
 トンネルの出口からこの場所へ。
 ここは掃除機の腹の中。
 東京というゴミタメ
 集めて、絞って、固められ、あとはまとめてポイと捨てられる。

 こんな時代の若い奴らに、自分自身の心の奥から、熱くたぎり出る目的なんかありはしない。
 「夢」という言葉に置き換えて、口にする奴がいたにしても、その「夢」の作り方は、その辺のテレビや雑誌のページをとりあえず、自分のくだらなさに貼り付けただけのもの。
 日本の片隅からのこのこやって来た者などに、目的と呼べるものがあるとすれば、それはただ、東京に行くということだけ。
 それ以外に、本当は何もない。
 東京へ行けば、何かが変わるのだと。
 自分の未来が勝手に広がっていくのだと。
 そうやって、逃げ込んで来ただけだ。

 「貧しさ」は比較があって、目立つもの。
 この街で生活保護を受けている家庭、そうでない家庭、社会的状況は違っても、客観的にどちらがゆとりのある暮らしをしているのかもわからない。
 金持ちが居なければ、貧乏も存在しない、
 東京の大金持ちのような際立った存在がいなければ、あとはドングリの背比べのようなもの。
 誰もが食うに困っているでもないなら、必要なものだけあれば貧しくは感じない。
 
 しかし、東京にいると、必要なものだけしか持っていない者は、貧しい者になる
 「必要以上」のものを持って、初めて一般的な庶民であり、「必要過剰」な財を手に入れて、初めて豊かなる者になる。
 "貧乏でも満足している人はお金持ち、
  それもひじょうな金持ちです。
  金持ちでも、いつ貧乏になるかとびくついている人は、「冬枯れ」のようなものです"
 「オセロー」の中のこんなセリフも、東京の舞台では平板な言葉にしか聞こえない。

 必要以上を持っている東京の住人は、自分のことを「貧しい」と決め込んでいる
 あの町で暮らしていた人々は、金がない、仕事がないと悩んでいたが、自らを「貧しい」と感じていたようには思えない。
 「貧しさたる気配」が、そこにはまるで漂っていなかったからである。

 搾取する側とされる側、そういう気味の悪い勝ち負けで明確に色分けされた場所で、個性や判断力を埋没させてしまっている自が姿に、貧しさが漂うのである。
 必要以上になろうとして、必要以下に映ってしまう、
 そこにある東京の多くの姿が貧しく悲しいのである。
 「貧しさ」とは美しいものではない。
 醜いものでもない。
 東京の「見どころのない貧しさ」とは、醜さではなく、「汚」である


 東京生まれの東京育ちの私にはきつい一発。
 その「東京というゴミタメ」で生まれ育った私は、果たして何者ナンダ!
 都会のウジか。
 確かにお似合いか。
 そういえば、最近東京へいった人が感慨深気にいっていた。
 「東京はほんと、きれいになりましたよ、ゴミひとつ落ちていない。
 浅草へいったのですが、タバコの吸い殻すらおちていない。
 でも仲見世のオヤジは不親切。
 買わないとみきわめると、まったくつっけんどになる」
と言っていた。
 都会が綺麗になって住めなくなってここに流れてきたのが私かもしれない。
 なにしろ、ビール瓶、空き缶、ペットボトル、マックの上袋や紙コップ、タバコの箱が道のあちこちに捨てられている。
 ビール瓶など車が通ると割れる。
 ガラスの破片が散乱する。
 こうなったらお手上げ。
 ゴミの街、ゴールドコースト
 ただ、すべてにわたって地面が広く、草の伸びが早いので、目につかないだけ。
 それに救われている。
 公共の道徳心はゼロ。
 膨大な予算で「ゴミ拾い」が雇われている。
 いわゆる失業対策。
 それも若者が。
 なんともったいないことを。
 その分税金も高い。
 とりあえず朝は、我家の前の緑地と歩道、それに車道際に捨てられているゴミは拾うようにはしているが。


 映画東京タワー予告編

【MAD】東京タワー×東京へやってきた
http://www.youtube.com/watch?v=nyVf45g-ZHA


 テレビドラマ





 さて、次はナンシー関。
 これ間違いなく女、「ナンシー」だからな。



 ところがである。
 2,3年前に、やはり最初の本を読んだとき、男だと思った。
 文体、切り口が男なのである。
 三浦しをんを男だと思い続けたように。
 読み終わって、ちょっと調べてみて女だと分かった。
 「消しゴム版画家」とあるが、これなんだろう。
 消しゴムってあの柔らかい消しゴムだよな。
 あれ、彫れるの?

 今日読み終えたのが2冊目の本になる稿頭の「何もそこまで」である。
 もちろん、これはつい最近古本屋で買った本である。
 この中でお見事と言えるのは、
 「糸井重里 見るのが辛い80年代の亡霊
だろう。
 よっと抜粋で引用しよう。





 私は、糸井重里がテレビに出ているのを見ると何だか暗い気持ちになる。
 テレビのなかの糸井重里は、丁重にもてなすべき意味のゲストであったり、メインになって仕切る人であったりする。
 そうやって尊重されていればいる程、見ているのが辛いのである。
 誰かが、
 「もうおもしろくねえんだよ」
とでも突っ込んでくれたらどんなに気が楽になるだろう。

 現在でも本業である広告や、あとファミコン界などでいろいろ「仕事」はしている事と思う。
 しかし、今、糸井重里がよくテレビにでる理由は(ここ1~2年、糸井重里はテレビ復帰と言ってもいいくらい、テレビによく出る)、ありがちな「各方面で最近御活躍」というところにはない。
 もう理由などなくてもテレビに出ていい、という人になっているのである。
 *****という理由を使わなくてもいいテレビ出演が徐々に増えてきていることは「成長」だ。

 しかし、糸井重里にそういう「成長」によって、現在の「理由なきテレビ出演」に至ったとは思えない。
 本人に「成長」する気があったとは思えないし、また「成長」感を与えるに至る不可欠な(視聴者の)慣れを植えつけるほど熱心にテレビに出続けていた訳でもない。

 糸井重里がテレビで尊重されている大きな理由のひとつに
 「80年代を捨てきれない大人になったヘンタイよいこ
というのがある気がする。
 私が複雑に暗い気持ちになるのは、この構造のせいだ。
 私は『ビックリハウス』も読んでいたし(投稿経験もアリ)、「萬流コピー塾」も読んでいたし(投稿経験もアリ)、『広告批評』主催の「広告学校」に通ったこともある。
 どれも80年代初頭、20歳の頃の事である。
 その頃の青い自我の全ては
 「イトイ的なカンジ
に集約される。

 そして現在、私は30歳を超え、しかしテレビには十数年前と変わらない80年代な糸井重里が、その80年代なままで尊重されながらいるのである。
 「否定」という言葉を使うほど、積極的に過去を拒否するのも大人気ないけど、でも自分の過去を全部肯定する必要もないと思う。
 「若気の至り」という弁解の仕方だってあるのに。

 「イトイ的なカンジ」にひかれた子どももが、現代30代なかばになり、「あの、イトイさんと」の思いを遂げているその結果が、
 「糸井重里よくテレビに出てる」
ではないのか。
 その「恩義」は「おもしろくない」ということを差し置いてまで優先させるほどのものなのか。
 (1995年4月)


 その彼女、40歳を目前にして亡くなってしまった(2002年6月)。
 倒れたその日組まれていた対談がリリー・フランキーとのものだという。
 そこでビデオを。


ナンシー関の部屋
http://www.youtube.com/watch?v=4tXKEG9C44E




 2008年11月25日に青森市で開催された「ナンシー関展」の様子のビデオを。


ナンシー関展
http://www.youtube.com/watch?v=sr0KRqM-cH4


 ビデオを見ると「消しゴム版画」なるものがいかなるものか分かってくる。
 それを本にしたのが販売されている。
 「Amazon.co.jp」より


「ナンシー関 消しゴム版画 [大型本]」
http://www.amazon.co.jp/%E3%83%8A%E3%83%B3%E3%82%B7%E3%83%BC%E9%96%A2-%E6%B6%88%E3%81%97%E3%82%B4%E3%83%A0%E7%89%88%E7%94%BB/dp/4840108684

カスタマーレビュー:

 ムック「笑芸人」にナンシー関の追悼小特集が出たのを記憶していたから、調べてみると2002年秋号(第8号)であった。
 もうとっくに一周忌を過ぎたんだ、と思う。

 そこでこの集大成本である。彼女の才能の大きさが余すところなく開陳されていて、永久保存版に相応しい。
 これだけの力をもち、これだけの有名人の版画を世に出していながら、なぜ世間の知名度が必ずしも高くなかったのか、不思議である。
 彼女自身がそれを望まなかったのか、風貌がphotogenicでなかったせいなのか。
 あるいはまた、彼女の優れた作品が、ともすればコラムの埋め草のように使われたことも、彼女と彼女の作品にとって幸福ではなかったかもしれない。
 だから本書が刊行された価値は大きい。
 彼女は正当に再評価されるべきである。

 ところで、35ページの作品は、私には「林家小さん」でも「柳家小さん」でもなく、「柳家金悟楼」にみえるのですが、みなさんいかがでしょうか?







● 花いろいろ